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  1. ~邪馬台国の卑弥呼と皆既日食(卑弥呼は二人いた!)~

スタッフブログ

スタッフブログ 2023.08.09
~邪馬台国の卑弥呼と皆既日食(卑弥呼は二人いた!)~

 いつも結城病院スタッフブログをお読みいただきありがとうございます。

 
 先日、佐賀県の吉野ヶ里遺跡から石棺墓が出土し、「卑弥呼の墓かも」と注目されましたが、開けてみると特に副葬品もなく、専門家からも「卑弥呼の墓の可能性は低い」と言われ、古代史ファンをがっかりさせました。もともと吉野ヶ里遺跡では大型の壺を用いた埋葬様式で、その中国大陸との類似性から、渡来系の部族の集落とも考えられており、一説では吉野ケ里は山東省にあった斉の出身の徐福の移民団の末裔という説もあります。卑弥呼は中国の「魏志倭人伝」に記載された人物で、西暦247年頃に亡くなったと記録されています。実は同じ中国の「三国志」と「晋書」には、この西暦247年3月24日に洛陽で日食が観測されたとする記載があります。この日食の範囲を現代の天文学で再現することができます。ここにNASA Eclipse Websiteに記載された当時の日食の地図を掲載しますが(図1)、

247年3月24日と248年9月5日の二回の日食が発生しています。このうち247年は北九州から出雲地方では、日の入りの前から太陽が欠け始め、皆既日食の状態で日没し、そのまま夜になったと推察されます。一方248年は日食で日の欠けた状態で日の出を迎え、その後午前中に元の太陽に戻ったようです。すると天文学の知識のない当時の九州の人たちには、247の日食の際には、太陽が隠れて無くなってしまう、この世の終わりのように思えたかもしれません。そして248年の日食で太陽が闇から復活して戻ったと感じたことでしょう。この二回の現象から連想されるのが、古代神話の「天の岩戸」伝説です。「天の岩戸」では、太陽神である「天照大御神」が、建速須佐之男命の狼藉に怒り、天岩戸に引き篭ってしまいました。高天原も葦原中国も闇となり災いが発生したので、八百万の神が岩戸前に集まり、お祭り騒ぎをしました。騒ぎに気になった天照大御神が扉を少し開けて顔を出したところを外へ引きずり出され、世界に明るさが戻った、とされています。まさにこの二つの日食によく似たシチュエーションで、以前から卑弥呼の日食と天の岩戸伝説を結びつける説は唱えれれていました。天照大御神と同じく、卑弥呼も人々から太陽に重ねて敬われていたとイメージされます。

 
 実は卑弥呼のモデルは二人以上います。邪馬台国の場所も畿内説と九州説と二つあります。そもそも「魏志倭人伝」に記載された「邪馬台国」は「ヤマト国」のことで、ちょうど Italiaを「伊太利亜」と当て字で書くのと同じように、中国側がつけた当て字です。「卑弥呼」という名も、中国側が蛮族の女王という意味で「卑」という字を勝手に当てただけで、本当の日本側の名前は「日巫女」あるいは「姫巫女」「比売子」とするのが正しいとされます。畿内説での「ヤマト国の姫巫女」のモデルとされる人物の本名は「倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめのみこと)」といいます。長いので以後は「モモソ姫」とします。邪馬台国(ヤマト国)は奈良県桜井市三輪山近くの「纏向遺跡」、お墓は桜井市の「箸墓古墳」が有力候補とされています(図2)。

古代ヤマトでは三輪山を太陽信仰のご神体の山と扱っており、丸い鏡を神具に用います。姫巫女であったモモソ姫は巫女的能力(シャーマン)に特に優れていて、時々神様が憑依してご神託を伝えていたようです。そこで姫巫女の主催する大祭の際に全国の有力豪族が三輪山の麓に集まり、モモソ姫からご神託をいただくことを「マツリゴト」というようになったそうです。これがだいたい西暦180~190年頃のことで、この噂を中国の役人が聞いて記録したのが「後漢書」と「魏志倭人伝」の前半、第一の卑弥呼です。三輪山は現在でも関西最強のパワースポットとして人気があります。モモソ姫の後代にあたる倭姫命(やまとひめのみこと)がヤマト国から伊賀・近江・美濃・尾張の諸国を経て伊勢の国の五十鈴川のほとりに移り住み、その場所が皇大神宮(伊勢神宮内宮)になったと言い伝えられています。その後は伊勢神宮で天照大神の御神体である八咫鏡(三種の神器の一つ)を祀るようになり、現在に至ります。

 
 実は皇室には伊勢神宮と共に二所宗廟として扱われた最も格式の高い神社がもう一つあります。それが現在の大分県にある宇佐神宮です(図3)。

宇佐神宮は古代においては重要ごとについて朝廷から勅使が派遣されて御神託をうかがう程重要視されていました。当時北九州から大分にかけて有力豪族の宇佐族が治める「豊の国」がありました(旧国名の豊前と豊後)。ここに古代神話の海幸山幸伝説の竜宮城の乙姫・豊玉姫のモデルにになった女性がいて、宇佐神宮の姫巫女についていました。この豊の国の姫巫女(豊玉姫)が第二の卑弥呼です。九州の人々は地理的・歴史的にも大陸との交流を昔から続けていましたので、西暦238年に豊の国は魏に使者(難升米と都市牛利)を遣わし朝貢しました。姫巫女(ヒメコ)は本名ではなく、役職名/肩書なので間違いではなかったのですが、魏では「これが噂の(ヤマトの)姫巫女か」と勘違いして、誤認したまま歴史書に記載してしまったと考えられます。つまり魏志倭人伝の後半は別の人物、第二の卑弥呼である「豊玉姫」についての記載だったのです。だから「親魏倭王の金印紫綬と銅鏡100枚」は九州の姫巫女(ヒメコ)の豊玉姫に授けられました。魏の記録ではその後豊の国は狗奴国との戦争状態になり、魏から使者の「張政」が応援に派遣されました。出雲口伝によると、この時豊の国(大分~北九州)は南の日向の都万国(宮崎県)と連合王国を形成していて、この年に(狗奴国ではなく)畿内のヤマトに向けて東征を開始。宇佐神宮に魏からもらった八本の黄色旗(幡)=八幡を奉納して戦勝祈願したので、宇佐はその後に八幡宮の祖として武力の象徴となりました。北九州市八幡の地名にも残っています。豊玉姫はその東征の途上に病のため宮島で病没します。その場所に厳島神社が建立されました。そして遺骨は豊の国に運ばれ、宇佐神宮に埋葬されました。後継者には娘の豊姫(魏志倭人伝にいう台与)が総大将に選ばれ、東征軍はその後にヤマトと出雲を制圧し、大和王朝を樹立させます。古事記における神武東征と出雲の国譲りのエピソードに相当します。宇佐神宮には八幡大神 (はちまんおおかみ)・比売大神 (ひめのおおかみ)・神功皇后が祀られていますが、このうち比売大神が第二の卑弥呼=豊玉姫だったわけです。宇佐神宮は亀山という円形の小高い丘の上に建ち、古くは「宇佐廟」と呼ばれていました。付近には「百体神社」があります。決め手は、明治40年と昭和16年の宇佐神宮の二度の改修時に地下から石棺が出土したのが目撃されていたことです。石棺墓は弥生時代後期(古墳時代以前)の埋葬様式です。いずれの際も「おそれ多い」とのことで、調査されることなく元の場所に埋め戻されたと言われています。いつか再び調査される日が来るのかどうかは今の所わかりません。

 
 第一の卑弥呼である「ヤマト国のモモソ姫」が登場したのが西暦180年代後半、第二の卑弥呼である「豊の国の豊玉姫」が没したのが西暦247年です。もしこれを一人の人物の業績だとすると、在位期間が50年以上から60年となり長くなります。不可能ではありませんが、古代の2~3世紀の時代を考慮すると不自然に思えます。だから二人の業績であっても矛盾しません。

 
 以上、今回卑弥呼の畿内説と北九州説を御紹介しましたが、古代史についてはいまだ諸説多くあり、現在確定しているものはありません。この話もその数多くの説の一つとして聞いていただくようお願いします。

 

最後までお読みいただきありがとうございました。

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